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PINE TREE TRANSLATION

Diary

 

Pretending It’s Okay2021.11.30

This morning I got a message from one of my students that she wanted to put off today’s class as she didn’t feel good. Of course she can (according to my lesson rules) and I didn’t want her to be sorry so I replied that’s totally fine. But at the same time I was disappointed as I’d been looking forward to it and excited about it, and I’ve been realizing that it’s important to admit that I feel sad or hurt or disappointed and embrace that feeling.

思えば「わたしは平気だ」と思ってきたことがたくさんあります。もちろん、そう思うことで「大丈夫」と思えるから大事なわけですが、その前にいったん「かなし、、」とか「ガッカリ」とか「つら…」みたいな気持ちをちゃんと認めてなかったなーと、やり過ごしてたなーと。

深い悲しみのときはそれがしやすいのですが、なんというか、すぐに立ち直れるちょっとしたことって自分の気持ちを無視してたり意外とするもんですね。

そういう気持ちを味わって、ずっとその中にいたり、何か解決方法を考えることを勧めたいわけではなくて、「あ、わたしちょっと今の悲しかったわー」って「そうやんなー」って言うのってちょっと大事な気が(やっと)最近分かったというか。

上に書いたような、急にレッスンが延期になったり、予定がキャンセルになったりとかもそうだし、前に触れたflirty textとか下ネタとかも(信頼できる人たちの間なら大丈夫だったりもするけど)。ふと思い出したのは、中学校の時にクラスの男子に下ネタ的なのをふられても、わたしはかなり冷静にコメントをして「やだな」っていう気持ちは出さなかった(「きゃー」みたいなそういう反応を期待されてると思ったから)こととか。

気持ちをぐっと抑えて、「わたしはそんなの平気です」みたいなポーズを知らず知らずのうちに、みんなそれぞれの場面でとってきたのかなーなどと思ったりします。

なんかね、それがわたしのパートナー不在問題にもつながっているなと思うので、またそれは次に。

小学校の時に「ニコニコマン」と呼んでくれた男の子がいたことも思い出して、それは何だかとても尊いし、よかったなーと思うし、今のわたしもそう思ってくれてる人が多くて、うれしい。と、同時に、何か瞬間で感じた悲しい方の気持ちをなかったことにしないようにしたいなと思います。That doesn’t make me a sad person. ね。

で、今日のレッスンはなくなったわけですが、レッスン前に行こう〜とお昼予約してたので行ってきます(笑)一瞬「えーん」って思ったけど、今若干 in my healing process なので、まるっと一日いただいたと思って。

Tranquility2021.11.28

今までにないぐらい投稿の期間が空いてしまいました。忙しかったのかといえばそうだし、ただ書こうというむきにならなかったというのが何よりの理由だと思います。

I’ve been feeling somehow unsettling, having hard time taking time to see myself. But I feel like I finally have time for myself and what I want.

「自分と向き合う」がどうするのかちょっと分からなくなっていたような。内に向きすぎると世界が狭くなって良くないような気がして、どこか周りを見ている瞬間が多かったかもしれません。結果、身の回りにある静けさを味わうのを少し忘れていたようです。

朝、母親が仕事に行って、父親や祖父が寝ている午前中の時間が一番落ち着く。家の周りは静かだし、向こうの山まで視界が広がるのでそこはそれがいいんだけどな、、音で乱される気がするのも、ゆっくり自分との時間を取れていないからかもしれません。し、やっぱりわたしは静かな場所が必要なのでして。

半年ぶりにweltさんのトリートメントを受けて、なんというか「外面」の奥のわたしの声にも耳を向けてあげねばと思ったのでした。外向きのわたしがいるのはそれはそれで良くて。ただ実は我慢してたこととか、無理してたこととか、気づいてあげられるだけでも違いますよね。2年ぶりにtandemをやっていて「ああ、結構わたしちょっと嫌かもって思うことも嫌われたくない人には合わせてるな」と気づいたのもよかったです。まあそれも、質問などされた後にYou don’t have to talk anything unfomfortableとか、話の流れで「uncomfortableとかpressured に思わせたくはない」と言われて分かったのですが。聞かれたら答えなきゃとか、comfortable zoneから出ないと、、みたいな強迫観念があるのは事実でして。でもやっぱり「なんかやだな」って思ったら出なくていいんですよね。

「何でも経験してみないと嫌か好きかもわからないし、、!」と追い込む(どこかで5月生まれの性質、と書かれていた)のも、それがポジティブな「やってみたい」じゃなければやらないで良いのですよね。(英語も「気持ちは向かないけど、喋れた方がいいし、、」みたいな人には「やらんでいいですよww」っていうくせにね)

それを避けていたら訪れるべき変化もこないとか、人生損してるとか、思うのやめたいな(疲労)。(この辺はドラマとか映画とか見過ぎ)

やっぱり「楽しそう」「面白いね」とかポジティブな反応を受けるのはうれしいから、ついついやってしまってたようなところもあります。「まじめ」とか「つまらない」と思われることへの恐怖がありますからね。そういうのなしにしても、やりたいこととか楽しいことはあるから、それでいいんですね。それで十分、わたしの何も損なわれないし、それで愛されなくなることもない。

ちょっと時間はかかるかもしれないけど(くせがついてるので)、そう思えるように変わりたいです。

そうやって、見つめたら英語のレッスンも翻訳もやっぱり好きやな、と思えたので安心。ただどういう形でとか、その中でも何が好きかとかはこれからも微調整しつつ。そうする中でも、やっていけているから「それでいいよ」ってことなんだと思いつつ。やっぱり無理なく続けて、なんかちょっと距離縮まったかも、、って思ってくれてる様子は嬉しい。そしてわたし自身もそのスタンス忘れないようになのです、無理なく続ける。