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PINE TREE TRANSLATION

Diary

 

Why do we learn languages2019.04.15

外国語は「ダウンロード」して使えるようになる、という話が色々と問題提起してくれました(自分の中で)。

まず、「英語のレッスン」「翻訳」を仕事にする者として、それは「アリ」だと思う。あり得る気はとてもします。でもこの悲しい気持ちはなんだ、と考えました。

前にも書いたけど、「つまんないなあ」と思っちゃうんです、たぶん。

仮に、全ては私たちの意識が作り出していることだとして、anything is possible だとすると「外国語」もそれを「学ぶこと」「習得すること」もなくなる。そうなったらそれはそれでいいんだけど、この「ああ、英語ではこういう表現があるんだ」とか「そういう仕組みか!」と気づくこととか「心地の良い音」とか楽しみが奪われる気がして悲しいのかな。

「使えるように」なることを目的にしてないのかもしれない。それは、わりとどっちでもいいのかな。おまけというか、ついてきたものというか。もちろん、それでよりコミュニケーションが取れるからツールとしての役割もあるのですが。外国語を習得することが差し迫った状況でないところに住んでいるから言えるのだろうけど。

もちろん、私もうまく英語で話せなくて「全然ダメだなあ」と思うことはありますが、そこで「なにくそ」と思うのが一番の動機じゃないんです(どうも私はこの「なにくそ」精神が求められるのが嫌いです。I HATE it!)。例えば、エンジニアの人が機械を見て「へえ、こうなってるんだ」とか「美しいなあ」とか思うこと、自分でもその知識や技術を利用して何か作ったり、模倣してみたり、別の機械を見て仕組みがわかったり、仕組みがわかるから修理してあげたり、教えたりすることができる。でも、もっと美しく、もっと機能的にできる気もするなあ、と思いながらだったりする。そういうことをやってるのが楽しいから、「そんなのすっ飛ばしてダウンロードすればいいのに」と言われると「え!楽しい部分なくなるじゃない」と思って悲しい。つまらない。まあ、私を悲しませるためじゃなくて、英語の習得にウンウン唸っている人が多いから、しんどいことはやめたらいいんですよ、という「朗報!」なんだと思いますが。

わたしたちは、自分が「できない」と思ってるからできないことが多い。そこをちょっと崩して、想像力をはたらかせて英語に触れてもらうことは、「ダウンロード」できるようになることとそう遠くない気もする。昨日は星ヶ丘でのESSで、新谷さんのお孫さん(11歳、インド在住)が描いた英語の詩をみんなと読んだけど、皆さん「日本語にする」んじゃなくて想像できていてとってもよかったし、そういうことかな?むん。。。

しかし「想像できれば実現できる」とはうまく言ったもので…「できない」と思ってることって想像もうまくできないんだな。否定的な方向に簡単に攫われてしまったり。想像力を豊かにすること、美しい世界を思い描くことは、たくさんのいいことにつながってる気がします。

前に「いいな」と思った柴田元幸さんの言葉、探してきました。
「考えに考えて自分で補ってぴったりの訳語が湧いてくる(中略)それ語学を学ぶ一番いい学び方だと思う。辞書から覚えるのではなく文脈から悟る」(coyote vol.48)

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いちごと豆腐のティラミスが食べたくて〜