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PINE TREE TRANSLATION

Diary

 

Waving Hands to Each Other2025.09.25

The other day, I went on a solo northern Osaka tour, to Mametsubaki and Guli Guli. At Mametsubaki, I enjoyed Kumiko-san’s drink and sweet, and at Guli Guli, I saw Iwase-san and her unit’s exhibition, and Tsuda-san’s exhibition..

いわせさんと話していて印象に残った、「がんばろーねー!」という声かけの話。長い知り合いの作家さん同士、久々に会ったり、お互いの展示に行ったりしたときにこう声をかけ合って、ああ、みんなそれぞれ頑張ってきておるのやな(辛い意味じゃなくて)と力をもらう、というような。そういえば、私も先日のまさんに会いにvagueへ行った時に「えいえいおー!」という気持ちだったなと。

それとつながって、わたしがウロウロする理由も近いものがある気がしました。最初は、出かけて行って顔馴染みの人に会ったり、少し言葉を交わしたりするのは、笑顔で手を振り合っている感じだなと思ったのですが、のちに、それは人だけじゃなくて、その人が作った作品とかともそういう交流をしているかも、と思い、果ては視界に入っている全ての人やものと、Hi! とやっている気持ちがあるかもしれない…と感じたのでした。ま、そう思うと楽しいしね、という気持ちの持ちようでもあるんですが。

と言いつつ、次の瞬間にはすっかりそんなこと忘れていたりもしますが、折に触れて思い出してゆるみたいです。

Fill Up Your Own Cup2025.09.24

There have been the moments where I thought, “I want to write this as a diary article”, but those ideas always became foggy and disappeared. I also write diary-ish notes on my note app, so maybe I was just satisfied by doing that.

帰国してからの「楽さ」は、前回も書いた「自分に還ってきた感」ゆえと、「あ、〇〇ができてる・できてないって自分の存在価値と関係ないんか」に戻ってきて「自分からの肯定が欲しかっただけ」「自分に嫌われたり絶望されたりするのが怖かっただけ」「感じてはいけない感情はない」「出来事はニュートラル。自分のその瞬間の状態が色付け(意味付け)してるだけ」「最善も最悪も自分の中で感じているだけ、自分が選んでいる」と思い出すとゆるむからだと思う。今までも似たようなideaには出会ってきてるんだけど、帰国して少ししてから、フェリファブさんという方の動画に出会って、結構クリアに腑に落ちた気がします。

だからって向上心やwant toがなくなるわけではなくて、「生かされてるだけですごいよね!なんか人間活動楽しんでるね!そっかそっか、そうだったわ、」というところに戻ってもwant toは出てくるし、それにこそ従って動きたいだよね、と。

“Trust yourself, and take care of you first, okay? Fill up your own cup and let them fall in love with the overflow.” というHarry Stylesの言葉を2023年のわたしはフリーペーパーに書いているのですが、fill up your own cupが「わたしは自分に認めて欲しかっただけ、自分にそこにいて欲しかっただけ」と共にやっと体感としてわかったような。良くも悪くも、fill up your own cupってどうするか具体的に知らずして、長いこと周りにfill upしてもらってきたり、自分でやってる自覚なくやってたりしてきたのかなと思います。その「認めてほしい」と思っていた対象の「自分」はたぶん、ずっと認めてくれていたし、そこにいてくれてたんだろうなとも思う。