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PINE TREE TRANSLATION

Diary

 

Observation2025.06.13

Hm.. 何か言葉にしようとしてみるけど、おさまりが悪くてためらっている。

しばらく遠出できなさそうだし、翌日大阪でレッスンだし、暑くなる前にもっかい行きたいしと2回目のThe World Expoへ行った昨日。ええ!というぐらいタイミングを逃して頭にあったパビリオンやパフォーマンス全滅で、なんやこれ(涙)、と落ち込んだけど「笑ってしまう」とか「勉強回や」とか「またネタができた」とか「また来る理由ができた」とか切り替えられて、それがうれしい。

余談だけど、万博のおかげで「どの国もいいね〜!」と思えてうれしい。もっと「呼ばれて行くぞ」がリアルに感じられる。

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今、その場でどれだけ幸せか噛み締めるだけでいいのだけど、それをやろうとした時に「でもこのことどうする?どうなるんかな?不安じゃない?」とか「あ〜!また頭でお喋りしちゃってだめ〜」とか「(え、暇になっちゃうよお)」とか、わいてくる〜〜って気づけた。

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出来事や感情に対して『良い・悪い』のジャッジ、何の根拠もなくしてきてたな

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決めたら、もう何も考える必要はなくて、目の前のことを楽しむだけで良いのだった。決めたことをachieveするためには…どうすれば…とか、こうだからダメなんじゃないか…って考えたり、いやでもさ…って語り始めたりして、それ通りに動かしてきたのは自分だったな。やっても良いけど。決めたことを思い出せば。何のことはない、私たちはそうしてたくさんのことを叶えてきたのだし。英語はそのひとつ。

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何回目かな、『インセプション』はしょっちゅうじゃないけど定期的に見る。今回はやっぱりよりクリアになった。私たちはこの人生ずっとinceptしてきたんだな(前述の、何が良くて何が悪い、とかも)。最後のシーン、いつもなら「倒れて!(現実に戻ってきたって証拠見せて!)」って思ってたけど、最早コブがそう決めたならそれで良いかって思ったり。

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「ぼーっとする」ってあんまり分かってなかったけど、やっとどういうことか体感があってうれしい。もっとぼーっとしたい(笑)

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本屋さんは、読みたいのを探しに行く、から、インスピレーションを得に行ってる感覚だった今日。手元に置くと握りしめすぎな感じがしたので。

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そういう、染みついたjudgementに気づいて手放してゆくのだ

Where’s the Proof?2025.06.06

今、ここにわたしが英語ができるという証拠もなければ、できないという証拠もないわけで。

「できると思っている」というのが唯一の証拠というか。今ここで「できる」につながることをたくさん紐付けしている、もあるかな。

「できたらいいな✨」と純粋に思ったことは叶う、というのは英語を通した(他にもあるけど)実体験としてそうだなあと思うのです(というか、何事も思ったようにしかなっていない、というのは8年前ぐらいにははっきり感じていて、どこかに書いたと思う)。「できない…」と思ってもおかしくないような出来事も、凹んだこともあったかと思うのですが、そっちに舵を切らなかったというだけなのではないかなと。もちろん今でも「できない」のラベルを貼ろうと思えば貼れるのですが(そのきっかけはいくらでもある)、わざわざそれをする理由がないし。

なので、「できそう」「できてんじゃない?!」と思いつつ目の前のことを楽しんで、楽しめそうなことをやっていく、結局それだけで。ESSは「楽しめそうなこと」の一つだったり、「できそう」と思えるための伴走になっているのではと思っています。

そしてこれは、英語以外のことでも同じで。わたしも「いいなと思うけどできない」ことは、そう思うための紐付けをたくさんやってきたんだろうと思います。うれしい、幸せな紐付けはいいけど、しんどくなることはやめたらいいんですよね。いますぐ。できない、と思うことで自分を下げる(できていることを今の自分の上に置く、これさえできれば完璧、と思うなど)のもやめる。今はそれに少しずつ気づきつつ解いているところ。えいえいおー。