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PINE TREE TRANSLATION

Diary

 

Follow-up & Update2022.06.05

翻訳を完全に切り離すことに違和感(危機感?)というものがあって、収入的な不安かしら?と最初は思っていたのですが、どちらかというとidentity crisis のようで、少し前はそれも全て手放すのが良いのだ、とワクワクもしていましたが、わたしはわたしのできる・やりたい形で「翻訳的」な関わり方をしてもいいのでは?と土曜日の朝、具体的に「どう」とはわからないものの、「残す」の色が濃くなったのでした。

今回ラボタモさんの展示を見に東京へ来ていて、会ったら伝えなければ、しかし何と言う?とずっとなんとなく考えていて。メッセージや短い文の英訳はしんどくないもんな、そんなのも全部断るってこと?お願いしてもらって、わたしも「訳したい!」って思うのがある時はどうする?とぐるぐるするうちに、翻訳の「正しさ」や「品質」にobsessedしていたのはわたしだな、、そこから解放されたいのだな、、と思うに至りました。

当日の朝ごはん、PARKLETに行くと高橋ヨーコさんの写真展が開催されていて、高橋さんの写真雑誌 Ontalioの日英両表記の記事を読んでいると、こう、両方楽しめるのっていいよな〜としみじみしました。素敵やな、と思う記事をただ読んで楽しむワークショップなどもいいかもなあなど。

ラボタモさんにも、これからは受けられるのが減るかもしれない旨だけ伝えたら、「誰かの専属になって囲い込まれたのかと思った」「色んな人から必要とされてるから」と言われて、自己評価の低さを実感しました。ゲーム言語の英語(生き返ることを respawn というなど)は正されてもそっちにハマってるのやという話も、「正しさ」が解されてよかったです。

翻訳で何を訳したいのか、どう訳すのかは、相手の要望ありきであまり自分がどうしたいかは考えてこなかったような気がするし、shitty translationを出してはならぬという強迫観念がしんどさの原因ではあります。なんかでも、しんど…ってなりながらいわゆる高品質のものをやるより、私も自由に楽しんでやりたい。やりたいと思えるものなら受ける、とか納期はこちらに合わせてもらう、とかノンネイティブ品質でもよければ、と受ける、とか、やってもいいのかな。

そういえば数年前、和井内さんのアメリカ旅の紀行文が良くって、翻訳を相談されたのだけど予算が合わなくて一旦流れたものの、やりたかったからネイティブチェックなしで好きなようにやったやつを、好きやからやってしまいました!通じなくはないと思いますと渡したことがありました(結局文章量を少なくしたり、なんやかんやあって正式に依頼もしてもらえた)。その時の気持ちを思い出せばいい気がします。

カフェという「好き!」も仕事にさせてもらえているからこそ、翻訳もESSももう少し好きなようにやれる余裕ができるのでは、と思えるようになりました。

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(PARKLETも展示もさいこうやった!すき!)